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山陰スピリチュアル紀行

出雲市の高天原・大和に関わる神々を巡る

鹿島神社・膳夫(かしわで)神社跡~そば処・喜多縁(えきたえん)~比那(ひな)神社~止屋(やむや)の淵跡~比布智(ひふち)神社~宝塚古墳

今回の神社めぐり報告は、ご案内した私、三代隆司(賛助会員)が書いています。出雲市でも大和系という異端の神々を巡りました。皆さんとは出雲市役所で合流し、武志町の鹿島神社に向かいました。

タケミカヅチを祀る鹿島神社と膳夫(かしわで)神社跡(武志町の斐伊川河川敷)

高さ2mはあろうかという大きな石に「鹿島神社」とあり、鳥居は少し大和風?という感じ。境内に入ると小汀宮司にお出迎えいただいて、拝殿に上がり正式参拝、祝詞奏上に続いて玉串を奉じ、鹿島神社や合祀されている膳夫神社についてお話を聞きました。


『古事記』によると

「国譲りの大国主命の条件を受けいれて高天原の神々は出雲の多芸志(武志)の小浜に立派な宮殿を造り水戸の神(水門の神)の孫の櫛八玉(クシヤタマ)命が膳夫(料理を含めた接待役)を掌り、姿を鵜に変え海中に入って藻や魚をとって料理し、土で器を造り大国主をもてなした。」 

とあります。


このため櫛八玉命は料理人や陶工の祖神とされています。その櫛八玉命を祀る膳夫神社は、今では鹿島神社に合祀されています。

 

鹿島神社の祭神は国譲りを迫ったタケミカヅチ、フッツヌシ、アメノトリフネ、クシヤタマの4神。2016年から、秋の例祭に櫛八玉命に因み「式包丁(しきぼうちょう)」神事を奉納されているそうです。

 

小汀宮司のお話は、斐伊川を挟んだ万九千神社の錦田宮司の話も交えてとても面白可笑しくて、1時間も聞き入ってしまいました。(※詳細は「北陽小学校 鹿島神社 PR」で検索! 小学生が取材した式包丁神事の記事があります。)

鹿島神社から斐伊川土手に上がると河川敷公園が広がっており、そこにある膳夫神社蹟をご案内しました。蹟があると聞いていたけれど、場所が不明で、初めて来ることができたと喜んでもらいました。


さらに帰りがけに小汀宮司にお願いしておいた御朱印をいただきに寄ると、なんと御朱印には膳夫神社もあって、レアな御朱印!だと、みなさん大喜びで、嬉しかったです。

所在地:島根県出雲市武志町673

※膳夫神社跡⇒ 35.390288, 132.778524(緯度経度をGoogleMapの検索窓に入れると場所を表示します。)

そば処・喜多縁(きたえん)


午前中の予定を鹿島神社と膳夫神社で使い切り、参加者もエネルギー切れ! 出雲市役所に戻って、西隣りにある喜多縁へ。


ご主人は、市役所で蕎麦イベントを担当していたのが縁で出雲そばに惚れ込んでしまい、市役所を早期退職して蕎麦屋を始めたという岡嵩裕さん。

 

メニューには、蕎麦の他に岡さんが選んだ日本酒や酒の肴も並んでいました。様々な具が乗る まかない蕎麦にも惹かれました(笑)

この日、注文が多かったのは、おすすめの生湯葉そばです。色合いも美しく、生湯葉の食感もみずみずしくて美味しゅうございました。

所在地:島根県出雲市今市町42-30

※令和2年10月 出雲市平田町に移転オープン

比那(ひな)神社

出雲市姫原町(ひめばらちょう)は市役所から北方向、住宅街の中に比那神社は、ひっそりと佇んでいました。入り口横の駐車場に止めて小さな鳥居をくぐって参拝。

手水舎にある小さな板に筆書きされた比那神社の由緒書きには、

祭神は比那鳥命、別名を武夷鳥命、武日照命(タケヒナテルノミコト)と日本書紀に明らかなり、アマテラスの御子アメノホヒが父神である。

 

天孫降臨に先立って出雲国に降り立って、オオクニヌシに対して国土奉献の任務を平和裡に遂行された軍使の神であり、後にこの比那原の地に宮造りし鎮座した。

とありました。


この武夷鳥命の名が『日本書紀』に登場する部分は、崇神天皇60年7月に、天皇が「武日照命が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい。」と言って献上させた場面です。


江戸時代前期に『出雲風土記抄』を書いた岸崎時照が姫原村の古老から、村の鎮守の丸い石の話を聞き、これを祀るために小祠を建てたと伝わっている。本殿左奥の丸い石神(写真中央)がそれと思われます。

所在地:島根県出雲市姫原1-1-59

崇神天皇が「神宝が見たい!」と言った続きの物語は、ここ止屋(やむや)の淵跡

日本書紀に出雲国造の祖先、出雲振根(イズモノフルネ)が弟の飯入根(イイイリネ)を殺害した場所。殺害の理由は、先の神宝に関わります。

 

崇神天皇の命を受けたのは、出雲臣の遠い祖先に当たる出雲振根である。つながりで言えば、武夷鳥命の子孫にあたる。


『日本書紀』によると、出雲振根は筑紫の国(九州)へ出かけており、代わって対応した弟の飯入根が、神宝をあっさりと献上してしまう。まもなく九州から帰った出雲振根は「なぜ数日でも待てなかったのか。」と怒り、そして年月がたっても恨み怒りはおさまらない。

 

とうとうある日、「止屋の淵(やむやのふち)に多くの藻が生えている。一緒に見に行かないか。」と弟の飯入根を誘った。振根はあらかじめ木刀を作って、それを身につけて行った。

 

そして飯入根が水浴びしている間に、飯入根の剣を自らが取った。飯入根は自らの剣を振根に奪われたので、振根の剣を取ったが、それは木刀だったのでした。

 

こうして飯入根が殺されるという大事件になりました。この一件を耳にした崇神天皇は、すぐさま出雲振根を討伐したのです。

さて、男二人での水浴びって何でしょうね。察するに、わざわざ清らかな藻の生える場所に出かけて水を浴びするのは、水に身体を浸して清める意味合いがあったのではないでしょうか。

 

(歴博のサイト「いずもる」より引用:三代は、いずもる執筆担当もしています。)

所在地:島根県出雲市大津町

ここにも神宝の影が・・・、下古志町にある比布智(ひふち)神社


比布智神社は、出雲市にある県立フラワーパーク「しまね花の郷」のすぐ東側にあります。

 

『出雲国風土記』に「伊弉那彌(イザナミ)命の時、日淵河に池を造った。ちょうどその頃、古志の国から人が来て堤を築いた。その時、彼らが宿としていたところである。だから古志と地名が付いた」という記述があります。


比布智神社は、元はその日淵河上流にありました。今も、天が淵や伊弉那彌命が鏡に使ったと伝わる鏡淵という場所があります。そして、先の神宝に関わる伝説が比布智神社にもありました。


比布智神社は江戸期には鍵取大明神と呼ばれていたらしいのですが、その名に伝説があって、出雲大社の神宝の鍵を盗んで逃げ、杵築大明神に芦渡で追いつかれて、鍵を投げ捨ててお宮に入った。というものです。

 

その前後の話は伝わっておらず。あれ??? という感じで謎ばかり残ります。

境内には、陰陽石という二つの大きな石があり、本宮の標石だったもの。祈ると必ず雨を降らせ給うそうです。このお二人は、何を念じたのでしょう。

この日、鏡淵は行きませんでしたが、上の写真が鏡淵です。左上の角が四角くなっており、人工的ではないでしょうか。

所在地:島根県出雲市下古志町1375

古志から来た人々の築いた堤とお墓


『出雲国風土記』に「宇賀池」という地名が載っており、その堤がここといわれる場所が残されていました。土手のような感じで、みんなで登って池の跡を見渡している風の記念写真を撮ってもらいました。

そこから近い場所にある「宝塚古墳」に行きました。ここは『出雲国風土記』に、先の古志の人たちの中に、佐与布(さよふ)という人がおり、最邑(さよふ)という地名が付いたと載っていますが、その人の墓と伝わる古墳です。中から誰かが・・・(笑)

所在地:島根県出雲市下古志町900-5

今回は、出雲系ではない神々で、面白がってもらえるか不安もありましたが、写真を見てもらうと分かるように、楽しんでいただけたようなので、一安心でした。また、レアスポットを探しておきたいと思います。

(2019.07.23)

 

協力:社☆ガール賛助会員 三代 隆司

※取材時点の情報です。掲載している情報が変更になっている場合がありますので、詳しくは電話等で事前にご確認ください。

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